アリストテレスのpolitike について

 和辻哲郎は『人間の学としての倫理学』のなかで

 倫理学は単純にEthicsの同義語として通用している。人は倫理学の語義を問うに当たって、平然とethike,ethos,ehosというごときギリシア語の意味を取り扱い、何ら怪しむところがない。しかし我々の倫理学の概念は果たしてEthicsと相覆うものであろうか。我々はそれをEthicsという言葉の出場所であるギリシアにさかのぼって考えたいみたいと思う。
 アリストテレスは体系的なEthicsを書いた最初の人と言われている。Ethica Nicomacheaがそれである。しかしこのEthicaと呼ばれている著書はアリストテレス自身によってそのように命名せられたわけではない。彼がこの著書において取り扱うのはpolitikeなのである。バーネットによればpolitikeと区別してethikeを一つの学として立てるというような考えを立てるというような考えは、彼の著書には一つもない。アリストテレスはただ一つpolitikeを書いた。それを後の人がEthicaとpoliticaとの二つの書に分けたのである。もっとも、かく分けたこともゆえなきではない。Ethicaと呼ばれる部分とPoliticaと呼ばれる部分とは著作の年代を異にしており、外見上同一の著作の部分とは見られぬ。しかも内容から見れば、Ethicaはあらゆる点においてpoliticaを待望し、politicaはあらゆる点においてEthicaを前提としている。Ethicaは人にとっての善(よきこと)がいかにして実現せらるかを問う。その答えは統治によって性格が作り出され、性格によって人の善をなす活動が可能になる、ということである。Politicaはこれを受けて統治や国家の制度のことを議論する。両者を通じて一つのmethodosが形作られている。この全体がアリストテレスにとってはpolitikeなのである。だから著者自身は、前半をethikeと呼ばないと同様に後半をもpolitikeと呼んではいない。それは大きい包括的なpolitikeの一部分たるperi politiasである。すなわちポリス的人間、もしくはポリス的組織に関する部分、にほかならないのである。
  
  
  和辻哲郎は政治と倫理を完全にべつものであるとは考えてはいない。なぜならばアリストテレス自身がそう考えているとギリシア語のなりたちから考察しているためである。倫理があって政治があり統治があると和辻哲郎アリストテレスを通して我々につたえようとしている。また、重要な文脈として以下の部分をあげる。

  そこで彼(アリストテレス)は人間の存在からその共同態の側面を捨象し、ただ動植物との区別においてのみあらわになるような人としての存在を問題とした。「人」の存在が「自然」の有と異なるのは、ロゴスによる実践としての人の働き(ergon)、あるいは活動(praxis)のゆえである。道徳はちょうどここに存する。人の善は「徳に合える心の働き」(pskhes energeia kat’areten)である。すなわち人が万物の霊として「秀でていること」(徳)に合うような心の働きである。Ethicsがその名を負うているethikeという形容詞も、人を自然物から区別する卓越性すなわち「徳」を形容するために用いれられている。ロゴスにもとづく徳は一方では知的(dianoetika)であり、他方では道徳的(ethika)であるが、人を自然から区別するのはまさにこのethikaという特性なのである。というのはethikaはethos(習慣)から導出せられた言葉であり、そうしてこの習慣なるものが自然物に欠けているちょうどそのものなのである。自然物は習慣によってその本性を変えはしない。石を幾千回投げても上へ動く習慣はつかぬ。しかるに人は習慣によってその本性を変える。習慣の結果として習性的(すなわち道徳的)の卓越性(すなわち徳)を作り出す。これが人の動物(たとえばチンパンジーや犬)と異なるゆえんであり、そうして道徳の領域なのである。

  習慣は人間としての徳をつくりあげると和辻哲郎アリストテレスの考えをとおしてのべている。動物と人間の違いは仲間をつくりあげる過程にあり、習慣にもとづいてその徳あるいは卓越性がかわっていくということである。
     石を幾千回投げても上へ動く習慣はつかぬ。
という言葉は習慣と徳が密接にむすびついている言葉だといえる。
 人間関係の場面でも習慣は人の徳をあらわしている。たばこを吸うことで人間関係が円滑になる人もいれば、お酒やコーヒーを飲むことで人間関係が円滑になる場合もある。コミュニケーションに関しては著者としては長きにわたって考察していきたいと思う。